歳を取ると、古典文学を読みたい気分になりますね。未来のことはどうなるかわかりませんが、過去のことはそうだったんだ、みたいなところがあるからです。おそらく、古典文学というものはこれから先も誰かに読まれるものでしょうし。
徒然草とか、国語の教科書に一部が掲載されていますが、徒然草を全部読んでみたところ、掲載されていないやつほど、おもしろかったですね。所詮、国語の教科書に載るようなやつは、なんか若干、現代の人に忖度していて、波風が立たないような文章だからです。
ということで、土佐日記も全部読んでみたいなと思っているところなのですが、古典文学はなぜにわかりにくいかといえば、当時の風習や文化が現代人にはさっぱり意味不明なところがあるからだなと思いました。もう廃れた風習とかもたくさんありますし、さらにいえば、省略して表現されるとさっぱりわかりません。
昔の人には当たり前のことでも、今の人には当たり前ではないんですよね。そういうことが当たり前ながらのことながら、自分の胸に刺さるところがいいです。私たちの当たり前は未来の人たちには当たり前ではないんですよね。時代時代によって常識が違うわけです。
ただ、昔の人も今の人も未来の人にとっても同じことがあるなと。それは国土のことだとか、人間のことだとか、そういうことはわりと普遍のことなのかもしれません。もちろん、未来のことはわかりませんが、今の人である私でも昔の人のことを理解できるなと思えるところはありました。
土佐日記の作者の紀貫之は土佐の国(高知県)の国司という、現代でいうと県知事みたいな人だと思うのですが、そういう偉い人でも人間の悲哀みたいなものは同じなんだなと。さらにいえば、歌もうまくて、当時の、というか、日本国の超一流の文化人ですよね。
土佐日記は一流文化人の日記ということですが、今で言う紀行文、旅行記みたいなところもあって、なかなか楽しいです。昔の人は命がけで旅行をしていたことを考えると、今の人は楽しく旅行してるなーという気分になりますね。そういう見方で土佐日記を見るのも面白いですね。
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